物部 氏 九州


 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。2019.05.12【古賀の最後の返答】 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。 筑後の物部氏. 第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。 物部氏が、南部九州から来てヤマトに攻め込んだ神武天皇にあっさり王権を渡して河内に移ったのは、彼らが瀬戸内海を支配する海の民であり、商人だったからではないか。名より実を取ったのだ、と。 【世系】物部氏は天孫饒速日命の御子味眞治命に出づ。人皇初代神武天皇に仕ひ、軍事を掌るといふ。 【家紋】此氏族の派生は家紋の発祥より古きにより代表紋は無し。
 2月21日の関西例会で、わたしは九州王朝の一時期の王が物部であったとする仮説を発表しました。根拠の一つは、記紀に特筆されている「磐井の乱」を物部アラカイが平定したとする記事の目的は、701年以前に九州を統治していた物部は、継体天皇の時に近畿から派遣した物部の末裔とすることにあった、と考えざるを得ないという点です。〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕○水野代表報告 第207話「九州王朝の物部」で、 九州王朝のある時期の王族は物部氏ではなかったかとする仮説を関西例会で発表したと述べましたが、その根拠の一つに高良玉垂命の系図(稲員家系図・松延家 系図・等)に玉垂命が物部であると記されていることにありました。あるいは高良大社文書の『高良記』にも玉垂命が物部であることは「秘すべし」とあり、も し外部に知れたなら「全山滅亡」とまで記されていることでした。 九州王朝説をどうとらえるか、です。 本ブログは大半が出雲伝承に基づいておりますが、物部東征以前の九州地方については、 九州王朝説の古田氏による倭人、邪馬壹国の論証や筑紫舞の存在を重視してい … 論議されている難波宮、二中歴、二倍年暦、及び九州王朝の「東大寺」は、メニューとして一覧に表示しています。難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相については、難波宮で議論されています。フォローする

九州遠賀川流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が奴国との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされている。 四国の北岸を通っていったのは、どうやら吉備の勢力を避けていったからと思われる。  「洛中洛外日記」843話で紹介した『王代記』の「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事ですが、「物部遠許志」は『日本書紀』には「物部尾輿」とあり、その違いが気になっていました。 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」 調べてみると、この「物部遠許志」とするのは『善光寺縁起』などの善光寺関連史料に見える用字でした。そこで『王代記』にある善光寺関連記事を調べてみると、次のようなものがありました。○善記四年(525)善光寺建立○貴楽元年(552)善光寺如来が百済より渡来 この貴楽元年の記事は『日本書紀』欽明紀に依ったものと思われますが、善記四年記事は当の『善光寺縁起』にも見えない記事です。おそらくこれも「天下熱病」記事と同様に九州王朝系史料に基づいたものではないでしょうか。これからの『王代記』研究が楽しみです。 本稿が2014年最後の「洛中洛外日記」となります。一年間のご愛読、ありがとうございました。それではみなさま良いお年をお迎えください。(追記)先ほど、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の初校用ゲラが送られてきました。特集企画「盗まれた『聖徳太子』伝承」用の拙稿の校正を正月休みに行います。来春の出版が楽しみです。 物部氏は筑紫の伊都国あたりで勢力を持っている。景行紀でも、大分の女族の部下として物部の名前が現れる。つまり、物部氏は、九州勢力の第一の将軍家系だったかもしれないが、大王の系統ではなかったのではないか、、、。そう、私は考える。 oyasumiponのブログ古代史の面白さにはまっている主婦です。もっと、気楽に書こうと思っていたのに、、、、。本では、徐福が2度目に倭国に渡来したとき、今度は北九州の吉野ヶ里の辺り落ち着いたという。築後川流域で勢力を伸ばし、築後・筑前を支配した(p76)。その頃の勢力を築秦国と称した。それがなまって後に筑紫国になったという。その物部の勢力が、紀伊の熊野に移住した。いわゆる邪馬台国の時代には、物部氏のうちの一人が、筑前の伊都国の長官になっていたらしい。(伊都国長官の「爾支」は、先祖の饒速日の「饒」からとった名前と考えられる)筑前には、饒速日が道教神を拝んだ天拝山がある。→饒速日は=徐福山なので、この山で仙薬探しを行っていたに違いない。また、高木栲幡千幡姫命というのは、徐福が連れてきた母の名だという。(p77)とするなら、内宮の配神のうちの一つは、徐福の母であり、もう一つの配神の手力男は、徐福の父「徐猛じょもう」という事になり、内宮に祭られているのは徐福、だ、という事になる。外宮の「豊受大神」も徐福であるなら、同じ神を祭っている事になりなんだかつまらない。ただし、内宮のご神体の八咫鏡は、忌部氏の大宮姫が持っていたものであり、忌部氏が出雲系であれば、出雲の神を、また、忌部氏の系図に天細女がおり、これは宇佐の女神を表す(卑弥呼)、という別な記述を参考にすれば、内宮は宇佐女(忌部氏)が作らせた家宝・八咫鏡である、とも解釈できる。 という事で、饒速日は、二度の倭国渡来時の徐福の和名で、そこで得た息子が彦火火出耳だという。この勢力は、佐賀・筑紫の辺りであり、なるほど、佐賀では九州では珍しく銅鐸の鋳型が見つかっている。しかし九州・徐福は銅鐸をシンボルにせず、銅矛を作ったらしい。 氏の本では、この後裔の勢力が、薩摩半島をまわり日向に進出し、その大王(崇神天皇)と豊国(大分)の卑弥呼が連合して東征をした、という流れであった。(東征の結果の巻向前方後円墳成立)実際に東征した男神は垂仁(イニエ)天皇で、宇佐八幡の元社家の宇佐氏の伝承では、イニエ大王は物部氏の首長であった、となっている、そうだ。(p118) しかし、前のブログにも書いたが、物部氏と日向とは直接のつながりがない(ように私には思われる)。物部氏は築後川流域か鞍手の辺りの勢力。垂仁大王が物部氏だった、という伝承を、出雲王家が持っていた、とは書いていない。大分の辺りは息長氏(天日矛系)の勢力が混入していると思われる。垂仁天皇が物部氏の族長であったかどうかは疑問だ。 また、氏の本では、九州の徐福集団の系図に途切れがあり、垂仁天皇として東遷した(はずの)ウマシマチの伝承が少ない。まあ、異母弟の家系なので当然といえば当然だが。九州の宮崎には、箸墓と同時期の前方後円墳がある。私は、紀元前2世紀頃の徐福の二男系統が、それから400年もたった紀元後3世紀のあたりに、突然勢力をつけ、前方後円墳を作り始めた、、、という流れに違和感を覚える。 氏の別の本、「出雲と蘇我王国」には、崇神天皇は、九州で生まれ九州で没したのだが、奈良にいた事にされ、しかも、伽耶が日本の領土であったかのように見せる為、わざわざ「ミマキイリヒコ」という名を与えられた、という。しかし、これはどうなんだろう、本当にミマキ(伽耶)に縁のあった大王で、その勢力が前方後円墳をシンボルとし、豊国(邪馬台国)と連合し、日向をかわぎりに、畿内に侵入した、と考えた方が流れはいい。それを裏付けるような遺跡もある。 記紀は出雲王家や徐福集団の事はかくしている。同じように、伽耶から侵入した勢力も隠されているに違いない。物部氏は筑紫の伊都国あたりで勢力を持っている。景行紀でも、大分の女族の部下として物部の名前が現れる。つまり、物部氏は、九州勢力の第一の将軍家系だったかもしれないが、大王の系統ではなかったのではないか、、、。そう、私は考える。垂仁天皇が東遷する時、出雲を物部十市根が責めたそうだ。これが「フツのミタマ剣」とされる。石上神宮の禁足地から出てきたのは、鉄刀だ。物部氏が徐福集団なら、これは青銅製でもよいはず。(これに対して、尾張氏の草薙剣は青銅製とも言われており、徐福が息子・五十猛に持たせた宝ともとれるか・・) 何度もとりあげているが、物部氏の象徴的神社は石上神宮、そしてそこの宝は、フツノミタマ・フツシミタマ・十種神宝だ。(剣は鉄剣。)このうち、十種神宝は物部氏ではなく、和邇氏が管理している。氏の記述によれば、和邇氏とは、徐福の長男の五十猛の息子・天村雲がおこした奈良の銅鐸王朝の系譜をひく、という。(=磯城王朝の最後、道主王の後裔の事)もし、物部氏が九州系の徐福の後裔で、秦王国から10種神宝を持って天降ったのなら、わざわざ、十種神宝だけ和邇氏に祭らせる事もないと思う、全部、物部氏、で管理すればいいのだ。それをしないのは、ウマシマチの鉄剣は、実は徐福勢力とはまた別だから、、、といえなくもない。 九州(日向経由)・ウマシマチが築いたと思われる巻向遺跡については、でも以前取り上げましたが、 <伽耶系の出土遺物 ホケノ山古墳からの出土品を調べると、伽耶との関係が一層はっきりする。 1、二重口縁底部穿孔(せんこう)壺 葬送儀礼用のこの壺は庄内式土器と呼ばれ、S(エス)字型口縁に特徴がある。弥生時代後期と、古墳時代初期の布留(ふる)式土器との間を埋めるものであるが、この二重口縁形式は釜山・東莱貝塚から祖型が発見されている。周濠内から発見された布留0(ぜろ)式土器も金海や釜山に祖型が認められるもので、畿内特有のものではない。2、銅鏃・鉄鏃銅・鉄各60個の鏃(やじり)が発見されているが、その中の「柳葉式」銅鏃は、金海・大成洞(29号墳)から出土しており、古墳時代最前期の椿井大塚山古墳へと連なるものである。木槨墓は伽耶に源流 後円内部の埋葬施設の構造は、これまで日本で知られていた粘土描槨、木炭槨、礫槨とは全く異なる。前例のない「石囲い木槨墓」であった。 瀬戸内地方の佐田谷1号墓(広島)、雲山鳥打1号(岡山)、楯築(同)や西谷3号(島根)で弥生時代末の木棺・木槨(板材)の二重構造が先行例として知られている。しかし巨大空間と丸太材組立(ログハウス式)のホケノ山の構造(長さ7㍍×幅2・7㍍×高さ1・1㍍)は初例で、非楽浪系の北方型墓制である。 これらの木槨墓の直接的源流は狗邪韓国や伽耶にあり、近年発掘された1~3世紀の金海・良洞里や福泉洞の約50基の墓群のうち、実に20数例が木槨墓であった。 さらに、金海・大成洞(29号、3世紀後半)では北方式銅?(どうふく)と共に、丸太材組立式の木槨墓が出現し、4隅に丸太材が立てられていた。また、蔚山中山里古墳群(2~5世紀)では、「石囲い木槨墓」と類似した構造の木槨墓も発見されている。 一連の日本の木槨墓は、弁辰や伽耶の影響を受けて成立したとみるほかないのである。 濃厚な伽耶との関係 以上のことから、ホケノ山古墳や纒向古墳群の勢力が伽耶と密接な関係を有していたことが実質的に想定される。 また、二重口縁底部穿孔壺や布留式土器、さらには伽耶系の特殊器台形壺が、近接の初期大型前方後円墳、箸墓古墳でも発見されており、伽耶と畿内勢力との文化関係は濃厚である。> 参考: うん、私の過去記事も錯綜しています。豊国(邪馬台国)/伊都国の勢力が強力して巻向に入ったのは公孫氏か伽耶の勢力か、、、という感じ迷ってますね(まあ、記事の中では結構断定してますが)斎木氏によると、巻向侵入したときは、豊(台与)の時で、卑弥呼は安芸の辺りで抗争中になくなったようです。邪馬台国は、中国(魏)から援軍はもらえず、幡や称号しか与えられていない。それ以前の公孫氏の時代はまだ抗争中。そう考えると、実際に侵略部隊として活躍した北方勢力とは、がぜん、やはり伽耶の勢力、と思わざる得ない。 さて、もう少し検討してみます。



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