羞恥心 意味 山月記

唐の時代、しかしその性格は、我儘で人と和合せず、うぬぼれやで自信家のため、地方役人に甘んじることに不満を持っていた。こんなふうに地方役人のまま、つまらぬ上官に従うよりは、詩人として、自分の名声を死後百年まで残したいと思った。そこで役人を辞めて故郷でひたすらに詩作に没頭したが、評価されず、生活は苦しくなっていった。次第にあせり苦しみ、すると顔つきも変わり、肉は落ちて眼光だけが鋭くなり、初登庁のころの美少年の面影はどこにもなくなった。数年して、貧しさに堪えられず、妻子の生活のため再び地方役人の仕事に戻った。この間、かっての同僚は遥か高位に進んでおり、昔、歯牙にもかけなかった連中から命令を受けなければならぬ状態で、自尊心のつよい李徴は屈辱的な思いをする。彼は、気持ちが晴れずに、その言動はますます非常識かつ不道徳になっていった。そして一年後、河南地方へ出張したときについに発狂した。ある夜、急に血相を変えて跳ね起き、訳のわからない言葉を発しながら闇のなかへ駆けだして二度と戻ってこなかった。その後、李徴がどうなったかを知る者は誰もいなった。翌年、袁傪は、従者を多くともにしていたのでそれでも出発した。月あかりをたよりに林中を通っていると、一匹の猛虎が叢から躍り出た。虎は、あわや袁傪を喰おうと躍りかかるところだったが、身を翻して叢に消えた。そして人間の声で「あぶないところだった」と幾度も呟くのが聞こえた。袁傪は、聞き覚えがあるその声に驚愕して「わが友、李徴ではないか」と叫んだ。袁傪と李徴は、ともに科挙の登用試験に合格し登庁した間柄で、李徴にとっては最も親しい友人であった。温和な袁傪の性格が、李徴とぶつかり合わなかったのである。叢の中から、しばらくしてすすり泣くような低い声で「いかにも隴西の李徴」と答える。袁傪は、馬を下りて懐かしく挨拶をした。そして「なぜ叢から出てこないのか」と問うた。すると李徴は「友の前にあさましい姿をさらせない、もし姿をあらわせば、きみを怖がらせるだろう。だがこうして偶然にも友と会うことができて、恥ずかしさも忘れるほどに懐かしい。どうかほんの少しでよいから、この醜い姿をさけずに友であった私と話をしてくほしい。」と言う。袁傪は、叢の傍らに立ってそして袁傪は、李徴にどうして虎の身になったのかを訊ねた。すると李徴は、一年前、出張先で泊まった夜に、ふと目を醒ますと闇の中から誰かが呼んでいて、応じて外へ出てみると自分はその声を追いかけ走り出した。無我夢中で駆けていくといつしか山林に入り気づくと左右の手を大地につけて走っていた。体中に力がみちた感じで、岩石を跳び越え手先や肘には毛が生じていた。谷川に自分の姿を映すと虎になっていたという。死のうと思ったその瞬間、一匹の兎が目の前を過ぎるのを見て、自分のなかの人間は姿を消して、再び人間に戻った時には、自分の口は兎の血にまみれていた。それが最初の経験で、その後は虎として獰猛に生きてきた。ただ、一日の中に数時間、人間の時間が戻ってくる。その時は、人間の言葉も使うし、人間の思考もできる。そして人間の心で、虎の自分の残虐な行いを見て、自身の運命を振り返ることが情けなく恐ろしく、腹立たしい。そうして今では、その人間にもどる時間も短くなっている。今まではどうして虎になったのかと悩んでいたのに、このごろは、どうして以前は人間だったのだろうと考えるようになり恐ろしい。もう少し経てば、すっかり人間の心はなくなってしまうだろう。そうなれば、次はきみをほんとうに食べてしまうかもしれない。そして、自分が人間でなくなってしまう前に、頼みたいことがあるという。それは、自分は、詩人として名を成すつもりでいた。しかしその夢も実現せずこのような運命になった。そこで、かってつくった詩作の数百編、それは世間に知られないまま埋もれてしまうだろう。諳んじれるものが数十あるのでこれを記録してほしいという。偉そうに詩人づらをしたいのではなくて、巧拙は別として、このように心を狂わせてまで生涯執着したものを後世に残しておかないと死んでも死にきれないという。袁傪は、部下に命じて記録させた。李徴の声は、叢の中から朗々と響いた。長短三十篇、それは格調高く優雅で、発想も抜きんでており、才能の非凡さを思わせるものばかりだった。しかし、袁傪は、感嘆しながらも第一流の作品になるには何かが欠けていると思った。そして李徴は、自らを嘲るように、恥ずかしいことだがこのような情けない身と成り果てても、自分の詩集が長安の知識人たちに認められるのを夢見るという。李徴は、なぜこんな運命になったか、思い当たることもあるという。それは、人間であったときに、周囲との交わりを避け、人々は己を傲慢だ尊大だといった。実はそれが、恥ずかしさであることを人々は知らなかった。もちろん自尊心がなかったわけではないが、それはあくまで臆病な自尊心である。詩で名を成そうと思っているのに師に就いたり、師友と交わり切磋琢磨することを避けた。自分の臆病な自尊心と尊大な羞恥心のなせることである。自分に才能がないことを見破られることを恐れ、努力して磨こうともせず、才能がないことを知っているくせに、平凡な人々と交わることも出来なかった。そして次第に世間や人と遠ざかり、自身を怒りそして恥じて、ますます臆病な自尊心を大きくするばかりだった。人間は誰もが猛獣使いであり、その猛獣とは己の場合はこの尊大な羞恥心だった。それが妻子を苦しめ、友を傷つけ、姿を虎に変えてしまったのだ。才能の不足が明るみになることを恐れ、そして努力をしなかったことがすべてだった。虎に成り果てた今、ようやくそのことに気がついた。それを想うと悔いが残るが、もはや人間としての生活はできない。己のこのたまらない思いになる時には、山の頂に上り空谷に向かって吼える。でも誰も己の気持ちを理解してくれることは無い。あたりは暗さが薄らぎ、夜明けを告げる角笛が哀し気に響き始めた。虎に戻られねばならぬ時が近づいたと李徴は言い、別れの前にもうひとつ妻のことを頼みたいという。己がもう死んだと、きみから妻へ伝えてもらえないだろうか。今日のことは明かさないでほしい。そして厚かましいお願いだが、今後も妻らを憐れんで世話していただけないだろうか。叢から慟哭の声が聞こえた。袁傪も涙を浮かべ、よろこんで李徴の願いを聞いた。すると李徴はまた自らを嘲っていった。本当ならまずは妻子のことを先にお願いすべきなのに、己の詩作のことを先に気にかけるような男だから、こんな虎に身を落とすのだ。そしてこれからはもうこの道を通らないでほしい、自分は虎となって友に襲いかかるかもしれない。これから別れて前方にある丘を上ったらこちらを振り返ってほしい。自分の今の姿をもう一度お目にかけよう。勇を誇ろうとするのではなく、醜悪な姿をみせることで、再びここで自分に会おうという気持ちを君に起こさせないためである。袁傪は、こころからの別れの言葉を述べ馬に上り涙の中を出発した。丘の上についたとき、言われた通り振り返った。一匹の虎が草のしげみから道の上に躍り出て、白く光った月を仰いで物語の中の重要な言葉として「臆病な自尊心」これは、自分の自尊心(ほこり)が否定されることの恐さから発する臆病なふるまい、行き過ぎれば人間的な成長を損なうことになります。「尊大な羞恥心」これは、自分の羞恥心(はずかしさ)を見破られたくないがゆえの傍若なふるまい、行き過ぎれば人間的な関係を損なうことになります。これがなければ人間として社会に適応することが難しくなり、極端な象徴として、物語では、虎に変わります。尊大な態度ゆえ、皮肉として獰猛な虎になります。兎を喰った血が口のまわりにつくことは強者の証ですが、それは畜生界の話であり、人間界ではこれほど嘆かわしく無法なことはありません。33歳の若さで亡くなった中島敦は、涙をためながら「書きたい、書きたい。」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい。」と言ったのが最後の言葉だったと伝えられています。確かに、自我の強さ、そこに潜む「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、人の世に適合することができず虎と化してしまいますが、地方役人の職を辞し財産を失い生涯を賭してやりたかったのが詩作の道です。物語に中に“理由も分からず押し付けられたものを大人しく受け取って、理由もわからず生きていくのが、我々生きものの定めだ。”というフレーズがあります。作者の中島敦自身も、教員の職(公務員)に就き、それから南洋にあこがれパラオに赴き、そこでもうまくいかず東京に戻ります。このパラオの赴任の間に、やっと友人の作家によって推挙された「山月記」と「文字禍」の二編が発表されますが、その翌年には亡くなっています。当然、病気など予期せず望むものでも無く、作家として病気で衰弱する心身にあっても創作の思いは旺盛であったと思われます。すべてを投げうっても残りの時間をできるだけ長く創作にあてたいとの気持ちが、つまりは人間ではなく虎(あるいは実生活では自身の身体が病気から次第に死へと向かっていく予感)として、自身の業としての創作欲が内面性として強く表れたと捉えることもできます。中国の古典、唐の李景亮撰と題する「人虎伝」を題材としている。「人虎伝」の李徴はその非人道的な悪行によって、因果応報的に畜生道に堕ちる。それは寡婦との私通をとがめられて、その家に放火して皆殺しにしたことで虎になるという話ですが、この部分が「山月記」では、中島の全くの創作となっており、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の中での人間的な苦悩が描かれている。中島は変身譚への嗜好があり、文章の特色としては漢文読みくだし調の中に心理的な推移が伝わる。その家系から祖父は江戸末期の著名な儒者の孫弟子にあたる学者であり、漢文調の作品とも深い関係がある。1942年(昭和17年)2月、『文學界』にて発表。短編小説でデビュー作、 中島敦は、この時32歳。1933年4月、横浜高等女学校で教員となる、この年の12月に結婚。1936年に小笠原諸島や中国を旅行、1940年の暮れごろから喘息の発作がひどくなり、身体のために1941年に常夏の南洋パラオに南洋庁の官吏の仕事で赴任する。赴任にあたり自らの原稿を交流のある作家に預ける。赴任から半年後くらいに「山月記」「文字禍」の2篇を『文學界』に掲載が決まる。雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなり仕事への熱意もなくし1942年3月と東京に戻る。帰国後は喘息と気管支カタルで世田谷の家で療養。その後、『文學界』5月号に「光と風と夢」を発表し昭和17年上半期の芥川賞の候補となる。11月に気管支喘息の悪化と服薬の影響で心臓も衰弱し12月4日に死去。33歳没。関連記事は見つかりませんでした。

中島敦「山月記」の解説その3 今回は、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の解説となります。プライドが高いと、臆病になっていくのは何故か。恥を感じる気持ちが強いと、偉そうな態度をとってしまうのは何故なのか。人の心の真理を解説します。 【山月記のあらすじ】 秀才である李徴は平凡な役人の仕事に満足出来ずに、詩で名を上げようとするも失敗。 復職した時には既に友人は出世していて、李徴は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の為に人と交わる事が出来ない。 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@Copyright ƒvƒ‰Æ’닳Žtƒ^ƒJƒV All Rights Reserved

山月記で最も印象的なのは「臆病な自尊心」、「尊大な羞恥心」という言葉です。 分かりやすく言うならこの二語は「 強すぎる自意識 」と言い換えることができます。 詩の世界で名を残せずに元いた場所に戻ってくるという恥ずかしさ。

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